71_神奈川沖浪裏

皆さんは、「葛飾北斎」(かつしかほくさい)をご存知ですか?波を描いた「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)や、赤富士を描いた「凱風快晴」(がいふうかいせい)の絵がパッと答えられたなら、あなたはかなりの葛飾北斎ツウです。葛飾北斎は、まさに日本が誇る天才浮世絵師。しかし、そんな葛飾北斎にも、絵師を辞めようと思うほどの挫折に襲われた苦しい時代がありました。葛飾北斎は、一体どのように困難を乗り越えたのでしょうか。その転機をご紹介します。

葛飾北斎とは?

人生には、思いがけない出来事が起こることがあります。突然の地震や台風などの自然災害に襲われたり、たいせつな人を亡くしてしまったり。「葛飾北斎」は、順風満帆な「天才浮世絵師」というイメージがありますが、そんな天才でも絵師という職業を辞めようと思うまで、追い詰められた時期がありました。

葛飾北斎は、実はかなりの勉強家で努力の人。最初は浮世絵師「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)に入門し、「勝川春朗」(かつかわしゅんろう)と名乗ってそれなりに活躍していたものの、もっと絵が上手くなりたいと、狩野派(漢画系画派)、土佐派(大和絵系画派)、堤派(風俗画)、また西洋画を「司馬江漢」(しばこうかん)に学ぶなど、貪欲に、あらゆる画法を習得していったのです。

ところが、絵師が他派を学ぶことはこの時代はご法度(はっと:禁じられていること)。それがバレてしまい、葛飾北斎は勝川派を破門されてしまいます。※諸説あります。

次に葛飾北斎は、新たに琳派(俵屋宗達、本阿弥光悦を祖として尾形光琳が大成した装飾画の流派)に所属。「三代目俵屋宗理」と名前を変えて活動しました。葛飾北斎は、顔が細くスラリとした「宗理美人」を完成させ、一躍人気者となったのです。

71_己未美人合之内 浄瑠璃本

己未美人合之内 浄瑠璃本

しかし、葛飾北斎が不運に見舞われるのは、これ以降。それは1798年(寛政10年)、葛飾北斎が38歳のとき。人気になったわりには給料が少なくて、アルバイトで「七味唐辛子売り」をしながら生計を立てる日々。さらに突然、最初の妻(名前不詳)が亡くなってしまうのです。

葛飾北斎は所属していた琳派を辞め、絵では食べていけないと、絵師という職業自体を辞めようとまで追い詰められていきました。

1枚の画に救われる!

「浮世絵」とは、江戸時代に流行した風俗画のこと。実は浮世絵は2種類あり、それは、「浮世絵(肉筆画)」「浮世絵(木版画)」です。

浮世絵(肉筆画)とは、絵師が自筆で描いた絵のこと。精魂込めて描き上げる1点ものです。したがって、浮世絵(肉筆画)は料金が高く、お金持ちにしか買えない物。需要が少なく、ほとんど注文がありませんでした。そこで生み出されたのが、浮世絵(木版画)なのです。

中国から伝わったとされる木版画は、1度図版を描いて木に彫れば何枚でも刷ることができ、大量生産が可能でした。そのため、価格が安く、庶民でも気軽に購入できるようになったのです。

江戸時代には、この浮世絵(木版画)が大流行。台紙に貼って床の間に飾ったり、ポスターのように壁にペタペタ貼って楽しんだり、ハサミで切り取って着せ替え人形にするなどの遊びにも用いられていました。

しかし、浮世絵(木版画)は安い分、絵師にとっては儲からない物。絵師がお金を稼げて、自分の画力を最大級発揮できるのが、浮世絵(肉筆画)だったのです。

71_葛飾北斎

葛飾北斎

絵師を辞めようと追い詰められていた葛飾北斎ですが、これまで注文がなかったにもかかわらず、あるとき、浮世絵(肉筆画)の注文主が現れます。その注文主から、五月節句の幟(のぼり)に「鍾馗」(しょうき)の絵を描いて欲しいと依頼があったのです。鍾馗とは、中国の神様で、日本でも室町時代から信仰され、魔よけの効力があると崇められていました。

葛飾北斎がそれを描いたところ、2両(現在の約16万円)という、当時の葛飾北斎にとっては、とんでもない大金で売れたのです。まさに「待てば甘露の日和あり」。焦らずに待っていれば、やがて天から甘い露が降ってくるような良い機会がめぐってくる、という意味です。

葛飾北斎は、2両のお金をじっと見つめ、どの流派にも属さず、生涯画工を貫く「覚悟」を決めたと言われています。

覚悟とは、迷いを脱し、悟ること。困難なことを予想して、それを受け止める心構えをすることです。

実はこれがものすごく大事。覚悟なしに成功することはないと言っている人もいます。「生涯画工を貫く」という覚悟をしたからこそ、葛飾北斎は自分と向き合うことができ、苦難を乗り越え、実力を発揮できるようになったのではないでしょうか。

このことが転機となり、葛飾北斎にはこれ以降、浮世絵(肉筆画)の注文が度々入るようになり、後妻「こと」と出会い、「北斎」を名乗りはじめます。画家として大成し、絵を描くことで食べられるようになったのは、言うまでもありません。

「加藤清正公図」を解説!

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加藤清正公図

浮世絵(肉筆画)の「加藤清正公図」(東建コーポレーション所蔵)が描かれたのは、1799年(寛政11年)。葛飾北斎が生涯画工を貫こうと覚悟を決めた、まさに翌年です。この絵に添えられた画号は「不染居北斎」、印章は「北斗一星高」。

加藤清正」とは、安土桃山時代に生きた戦国武将。「豊臣秀吉」の子飼いの家臣として、1583年(天正11年)に起きた「賤ヶ岳の戦い」では、七本槍のひとりとして活躍し、熊本城主にもなった人物です。「文禄・慶長の役」で朝鮮にも出兵し、勇猛果敢な武将として、昔からたいへん人気がありました。

本浮世絵(肉筆画)は、加藤清正公が刀剣・日本刀を抜き、その刃の鋭さを確かめる、勇ましい姿が描かれた1枚です。葛飾北斎の浮世絵の中でも、これほど刀剣・日本刀がしっかりと描かれている物は他にありません

この刀剣・日本刀が何かを特定することはできませんが、長さから言えば「名物 加藤国広」(2尺2寸9分:69.4cm)ではないかと推定できます。

名物 加藤国広は、加藤清正が刀工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に作刀を依頼。愛娘「瑤林院」(ようりんいん)が、紀州藩(現在の和歌山県)初代藩主「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)の正室として嫁ぐ際に持たせた1振です。躍動感のある見事な乱れ刃が特徴で、重要文化財にもなっています。

注目したいのは、この絵の質感。加藤清正が右手で握っている刀剣・日本刀の鞘、また腰に差している鞘部分をよく観ると、白地の部分がデコボコとしていて、その材質が「鮫皮」であると分かるのです。

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加藤清正公図 鞘部分

また、甲冑(鎧兜)を形成している小札(こざね)は、1枚1枚に光沢感があり、材質が「漆」(うるし)であることを見事に表現しています。威(おど)された糸の配色も素晴らしく、とても丁寧。ぜひ近寄って肉眼で見て欲しい1枚です。

加藤清正公図は、2020年(令和2年)6月開館予定の名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」でも展示される予定。

やはり葛飾北斎の浮世絵(肉筆画)は、「上手い」の一言。大抵の画家には得意なジャンルがあって、その絵しか描かないものですが、葛飾北斎には、美人画、武将画、風景画、花鳥風月画など何でも描ける強みがありました。

また、突出した色彩感覚は、まさに天才的。ぜひこの機会に、葛飾北斎の浮世絵を改めて観賞してみてはいかがでしょうか。

葛飾北斎
江戸時代を代表する浮世絵師「葛飾北斎」。世界でも高い評価を受けている葛飾北斎に関するエピソードをまとめています。
名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」

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浮世絵[武者絵](合戦浮世絵/侍・武将浮世絵)
一般財団法人 刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて保有の浮世絵(武者絵)を解説や写真にてご紹介。